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2005.02.26

『イチロー思考』

『イチロー思考』児玉光雄(東邦出版)
見開き2ページの右側にはイチローの言葉。左側にはその言葉に関係した筆者の考えやイチローの行動が書かれている。
ぼくはイチローの言葉が好きなので記憶に残っているらしく、どこかで聞いたことがあるなというせりふも結構載っている。
イチローの言葉に刺激を受けて仕事を選んだり、生き方をガラッと変えたりしようとする歳ではもはやない。(ちょっぴりさびしいが…)ならば、目の前の子供たちに何かを伝えるときに利用したい。が、小学生ではかなりかみ砕いて解説をつけなければとうてい通じないだろう。むしろ左ページのイチローの具体的な行動を伝える方が効果的なのかもしれない。

「第三者の評価を意識した生き方はしたくない。自分が納得した生き方をしたい」p38
「やれることはすべてやりましたし、どんなときも手を抜いたことは一度もなかった。やろうとしていた自分、準備をした自分がいたことは誇りに思います」p58
「ここまでヒットを重ねるには、それより遙かに多い数の凡打を重ねなくてはいけない。やっぱり思うことは2000という表に出る数字じゃなくて、それ以上にはるかに多い数の悔しさを味わってきたことのほうが僕にとって重い気がします」p90
「打席ではいつもなにかを考えながら微調整をしています。意識を置くポイントは、時期によって足だったり、手だったりするんですけど、少しずつ自分の思い描くイメージに自分の形を修正しています。単に打つことを繰り返しているだけじゃ、ダメです。そんなに簡単なものじゃない。どうすればいいのかも、もちろん見えています」p162

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2005.02.25

参観授業と懇談会

今年度最後の参観授業と懇談会。授業は新聞の投稿記事を使ったもの。記事内容は、「賞を辞退して伝統を守ろう」(朝日新聞 声 04.03.19)というもの。大相撲の土俵の女人禁制について考えるというねらいだ。女人禁制を考える授業は過去にも6年生にしたことがある。今年は5年生相手に授業をしたのだが、やはり理由付けに弱いものがあった。6年なら歴史学習で、女性の社会的地位が現在とは比べものにならないくらい低い時代があったということを知識として持っている。そのような理由付けは5年生では当然出てこなかった。
この授業でもやはり驚かされたことがあった。○子が手を挙げて自分の意見を言ったのだ!

懇談会は、「学力診断テスト」の分析結果の報告と昨日の幼稚園との交流での写真を披露しながら子どもの様子を交えて話す。
資料提示は今回はパワーポイント。デジカメ画像はプロジェクターからデジタルスクリーンに投影するより、テレビで見る方が鮮明だった。
今までの懇談会はプリントを用意していたが今回の方が受けがよかったように思う。懇談会の方法も考えて(変えて)いかなくっちゃ、と遅ればせながら実感した。

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2005.02.13

『学び合いの仕組みと不思議』

『学び合いの仕組みと不思議』西川純(東洋館出版社)
第1章に述べられている「筆者がよいと思っているクラスの姿」は、ぼくが志向している学級の姿に近いものがある。しかし、現実はなかなかそうはいかない。
「第一に子どもは有能であると、『子どもを信じる』考え方である。第二に、その有能性を生かすためには、子ども相互の学び合いが有効であるという考え方である。第三に、その学びを成立させるためには、教師は目標の設定と評価、それと外部の調整を行わなければならない、特に、目標の設定が重要であるという考え方である。第四に、その目標の設定を成立させるためには、個々人の目標とするのではなく、子ども集団の目標とすべきであるという考え方である」p84
これにはどの教師も異論はないであろう。ところが「『子どもを信じる』という言葉をどのような意味でとらえ、行動するかは多種多様である」p85のだ。
だから、子どものあらわれざまで、その教師は本当に「子どもを信じている」のかどうかをはからなければならない。逆に言うと、教師に信じられた子どもは、そうではない子どもとどう違うのかを具体的にイメージできなければならない。「四つを標語的にまとめても意味がない」p85のだ。
しかし、実際問題としてここが難しい。ぼくが他人の授業を見るのは年間10回ほどだ。そのうち校内研で6つほど。同じ教師の授業で、去年見た授業とは全然違う雰囲気の授業というのはまずない。(たとえ考え方は分かったつもりでいても、それまでとは違うやり方を採るというのはなかなか難しい。だから同じような授業をする学級になってしまう)つまり、今まで知らなかった子どもの動きが見られる授業に巡り会う機会は非常に少ないということになる。これは、違う子どもの姿をイメージするのに大変な障壁になっている。現場で授業をやっている人間が他人の授業を見る機会が10時間なんて、少なすぎるよな。

「非常におもしろいのは、実験に参加する生徒を集めると、実験に参加しない生徒が現れる。逆に、実験に参加しない生徒を集めると、実験に参加する生徒が現れる。同役割班編成にしても、男女別班編成にしても、最終的な各役割の出現割合はほとんど変わらない。すなわち、ある生徒が実験に参加する/参加しないかは、個人によって決定されるのではなく、社会的に決定されるのである。」p36
だから6年間組み替えのない本校では、当然「役割」や位置づけは固定している。今年は1年間で4人ほど変えられたかな。ぼくの力だけでは(もちろん)ないけど。
(こういう書名に弱くて、2冊も買ってしまっていた)

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「投書記事を授業する」のまとめ

本年度何度か新聞の投稿記事を使った授業をした。
さて子供たちはこれらの授業をどう評価したか。
「国語の教科書を使った授業と新聞記事を使った授業ではどちらが意見を言いやすかった」ということで書いてもらった。
結果は27名中、24名が投書記事を使った授業。2名が国語の教科書。1名がどちらも言いにくい、というものであった。
投書記事の方が言いやすいという主な理由は次の通り。
◎教科書の文は、全く知らない昔の物語、説明文なので分かりにくいが、新聞記事の場合はニュースなどでも知っていることや身近な問題だから。(5)
◎投書記事は、本当にある話だが教科書は本当ではない話だから。
◎教科書の場合は答えがあって正解、不正解があって、自分が間違っていたらどうしよう…と思うけど、新聞の方は答えがなく自分の考えを言えばよかったから。(6)
◎この人の意見についてどう思うかだから。自分だったら…と考えられるから。(2)
◎いろいろな話題について考えられたから。
◎考える時間が多かったから。(2)
◎国語の話ではその主人公になりきりにくいから。「大造じいさんとガン」なんて、まあ自分にはあり得ないから。(2)
◎短いから。
◎いろいろな考え方が出たから。
次は、教科書の方が言いやすいと言う2人の感想。
●新聞は子供だと意味や漢字が分からない。
●教科書の授業はノートに書くが、記事の授業はプリントに書かなければならないから。

ぼくの国語の授業は、正解、不正解を意識させる授業をしていることが分かる。

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2005.02.12

『「静かに!」を言わない授業』

『「静かに!」を言わない授業』西川 純 (東洋館出版)
授業中の子供たちの姿を次のように分類する。
ア…私語・じゃれあいがあって課題達成が成立する場合
イ…私語・じゃれあいがあって課題達成が成立しない場合
ウ…私語・じゃれあいがなくて課題達成が成立する場合
エ…私語・じゃれあいがなくて課題達成が成立しない場合
そして、従来の私語、じゃれいあい感はイとウが意識されていたと言う。
ところがウのように多くの教師がのぞましいと考えている姿も、
「一方、教師からは真面目に見える班は、最後まで上学年が主導し、下学年が従うという型に留まっていた」p27
「表面上は整然と学習が行われているように見えるが、学習者の内面では異学年学習を負担と感じている」p31
のように、生き生きとした学習が行われていたとは言いにくい状況があるという。言われたことだけを、まるでノルマを達成するためにしている姿があるという。
一方、アのような場合がある。そこでは楽しく仲良くやるために課題達成に向かったのだと解釈できるという。

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2005.02.05

『頭がいい人、悪い人の話し方』

『頭がいい人、悪い人の話し方』樋口裕一 (PHP新書)
ぼくは話が苦手だ。だからこういう本を買う。でも、そう思っていない人はきっとこういう本を買わないのじゃないか。そういう人に限って自分の話し方に対して無頓着なのではないかと思っている。(と、書いたけど『私は話すのが得意です』と思っている人なんているのか?)ま、単に自覚の問題と言えるのかもしれない。

ぼくの仕事は子供が対象なので、優しい(簡単な)言葉を使うことが多い。それがあまりにも当たり前になってしまっているので、世間の大人の人と話すときにはとまどうこともある。例えば「よおく考えると…」といつも言っているので、「十分に検討してここに住むことに決定しました」と友人が言ったときなんかがそう。

ドキッとするようなパターンもある。「自分のことしか話さない」p101がそうだ。お酒が入るとついつい調子に乗ってしまうときがある。
逆に絶対当てはまらないパターンがある。「自慢ばかりする」p125がそうだ。
そしてどんな場面でも「やっかいなのは上司」だ。

「話し方」からの分類というより、人を分類して、こういう人はこういう話し方をすることが多い、という方向でまとめられた書だ。後書きにも次のように書いている。「本書に示した話し方のほとんどにモデルがいる。そのモデルの中には、私自身もいるが、尊敬に値する知的な人々もたくさんいる」p219

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2005.02.03

『こくご和歌山』原稿

市国語教育研の基礎講座で発表したものを冊子用に少し手直ししたものをここにアップしました。
ご覧下さい。

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2005.02.01

学級経営研究会の研究授業

市の学級経営研究会の授業があった。一応、コーディネータという役なのでいろいろと仕事をさせていただいた。
授業は、6年の総合的な学習の時間で「キッズフェスティバルを開こう」という単元。私には絶対できないものだ。
この時期でこれだけ話し合いができるのだからすごい。自分が調べた新聞記事などを増し刷りし、自ら配って、それを根拠に自分の考えを説明することや、手を挙げるときに「続いて」「対して」などと言って挙手することなどは参考になる。
教師の位置が相対的に小さく(垣根が低く)、子供たちが実にのびのびと話し合いをしていた。サル山のボスザル状態で居心地のよさを感じてしまいがちなぼくにとって真似のできないことなのかもしれない。しかし笑顔は真似ができる、と近ごろしかめっ面が多い自分をふりかえった。

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