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2005.08.15

『裏のハローワーク「交渉・実践編」』

『裏のハローワーク「交渉・実践編」』草下シンヤ(彩図社)
これからの世の中は言い淀むと負け、隙を見て反論ができなければダメ。
だから対話の上手な人間を育てなければダメ。そのために討論の授業が必要となってくるのだと、無理やり仕事に結びつけちゃいましょう。
背には「『土壇場で弱いやつは使い物にならない』『交渉力が必要な時代になった』などと声高に叫ばれるようになったが、裏社会の住人にしてみれば、なにを今更ということだろう」とあります。
下にも書いたように、度胸と達者な口が身を守る(?)のです。
重要文化財に指定されて教科書に載っている土器が、贋作かも知れない話(p111)や、少年犯罪が増えたと言われる統計上のからくり(139)など、トリビアもあります。
2冊とも一気読みができます。

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『裏のハローワーク』

『裏のハローワーク』草下シンヤ(彩図社)
「生計を立てる」には、じつに様々なやり方があるということを具体的に知ることができます。本書には20種類の「仕事」が紹介されています。このうち半数近くが非合法なものだそうです。つまり、「裏」稼業です。
一度でいいからやってみたいというのは、さすがにありませんでした。怖すぎます。
度胸がいるし口も達者でなければ渡っていけない世界です。
もしかしたら「ゴルゴ13」は実在するかも…なんて思わされました。

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2005.08.13

『「ダメな教師」の見分け方』

『「ダメな教師」の見分け方』 戸田忠雄(ちくま新書)
著者は公私立高校の教師や管理職のほか塾や予備校の責任者も歴任している。その経験をもとに書いている。だから小学校のことにはマッチしないところもある。例えば「研究授業」についての見方がそうだ。p142
しかし「あるあるこういう考え方」p31とか「いるいるこういうセンセ」p108というところがいっぱいある。

本書の主張は「学校教師を世間並みに教育成果に対して評価する必要がある」である。
保護者がぼくのことややり方をどう思っているかは1年ほど遅れて入ってくる。でも、これは結果オーライの時だけだ。結果オーライでなければ耳には入ってこない。
多分あと10年はこの仕事を続けるだろうから、自分を客観的に見られるようにしておきたい。せめて自分の授業のことだけでも。

「閉鎖的な集団のなかにいて『センセイ』と呼ばれ続けているうちに、井の中の蛙になって自己評価だけ肥大化してしまう。狭い学校の中では先生かも知れないが、保護者は『子どもを人質』に取られていると思えばこそ、言いたいことも手控えているのです。なかには心ならずも迎合し、なるべく教師のご機嫌を損ねないように下手に出ている」p108

「会社員はどんな職業につくかというよりは、どんな会社に入るかに関心を持っています。よくいわれるように就職というよりは「就社」です。学校教師はどんな学校に入るかではない、いわゆる「就社」ではなく教職という職業に文字通り「就職」するのです。教師は会社員のようにゼネラリストであるより、むしろスペシャリストです。教職として教えるプロだからこそ、その技を競うのは当然で、競うことにより技も磨かれる。競わなければ劣化するのみです。/よく教育に競争はなじまないと言いますが、幼い子どもに競争を強いるのはよいことではありません。だから子どもに対しては競争の低年齢化や過剰競争は避けるように、大人は知恵を出すべきです。しかし、教師は大人ですしスペシャリストだから、むしろ競争して技を磨いてもらわなければ児童生徒のためになりません。子どもに競争させることと、教師に競争させることは別問題です」p265

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2005.08.12

第20回人間教育実践交流会「伊丹フォーラム」

第20回人間教育実践交流会「伊丹フォーラム」(11日)。
昨年の京都フォーラムについでの参加になる。

はじめは梶田叡一氏の基調講演「内面性の教育と確かな学力」だ。
「子供の顔の裏側を見なければいけない。そこまで届かなければいけない。内側を動かさなければいけない」
教師の顔色を見て動くような子供にしてはいけないということである。同時に、(分かった)ふりをして(くれて)いる子供もいるから、それを教師は見抜かなければならないということである。厳しい言葉だ。

次に、加藤明氏。
「評価から教育を見る」というテーマで話された。
氏は、昨年まで次の3つのことを言っていた。
1指導の成果はあがっているのですか?
・子供は我々が望むほど分かっていないという気で授業に臨まなければならない。
2その成果で十分なのですか?
・分かる、覚える、できるというレベルなら簡単。
3その成果をどう学習者に返してやるか
・見方、考え方が深まっているとか高まっているかどうかというのは、学習者に見えにくいものだ。だから教師が返してやる必要がある。分かる、覚える、できるは子供自身でもに分かることだ。
今年はそれに付け加えて、「到達目標の明確化」を意識しなければならないと言う。
「知識・理解、表現は到達目標がはっきりしている。が、思考力・判断力、関心・意欲・態度などはその子の以前との比較になることもある。だから、「ここまで」という目標は設定しにくい。が、育てようとしなければ、育たない」

次は、有田和正氏。
「桃の紙袋」「富良野・美瑛」「熊本県植木のすいか」など、ご自身の「?」を追求する話をユーモアたっぷりにお話になる。
追求することが本当に楽しくて仕方がないという話だ。
こういうお話を聞くと、社会科は本当は楽しいものなんだろうなと思ってしまう。

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2005.08.06

『対話のレッスン』

『対話のレッスン』平田オリザ(小学館)

平田氏は話し言葉を「意識」という視点で次のように分類する。
「独り言」「反応・叫び」「会話」(挨拶)「対話」「教授・指導」「説得・対論」「談話」「演説」。
後ろに行くほど意識的に話している。つまりあらかじめ話すことが決まっているということになる。

ここで「会話」と「対話」の違いについて次のように定義する。

■「会話」とは、すでに知り合った者同士の楽しいおしゃべりのこと。p8
だから知り合った者同士のさらなる合意形成に重きを置く。p153

■「対話」とは、他人と交わす新たな情報交換や交流のこと。p8
だから異なる価値観のすり合わせ、差異から出発するコミュニケーションの往復に重点を置く。つまり対話とは「自分の価値観と、相手の価値観をすり合わせることによって、新しい第三の価値観とでもいうべきものを創り上げることを目標としている。だから、対話においては、自分の価値観が変わっていくことを潔しとし、さらにはその変化に喜びさえも見いだせなければならない。相手の意見に合わせるのでもない。自分の意見を押し通すのでもない。新しい価値創造の形が、いま必要とされているのだ。」p155
つまり対話はアウフヘーベンをめざしているのだ。

しかし日本人は対話が下手であるという。
なぜなら「日本人は、非常に流動性の低い社会に暮らしてきた」からだ。p158
「まずもって、このような社会では『対話』は必要とされないであろう。なにしろ、生まれてから死ぬまで人々は『他者』とは出会わないのだ」「そこから生まれる言語は、同化を促進する『会話』のためのものが発達し、差異を許容する『対話』が発達してこなかったのは当然だろう」p159

こういう部分は現任校の様子と重ね合わせて読んでしまう。
幼稚園から卒業するまで同じ学級という子が26/31いる。
転入生もほとんどいない。ぼくが赴任して5年目になるが数人である。
こういう世界では「対話」はいらない。「会話」だけで十分だ。それも『単語で喋る子供たち』p46~のように名詞だけでも十分だ。いや、周りの子が「~やしょな」と言ってくれるのに甘えて、うなずくだけですませる子も、実はいるのだ。

同時に位置関係も固定しがちだ。だから、○○君が1学期、「小数のかけ算・わり算」のテストで100点をとった(正確にはぼくがとらせた)ことが重要なことになってくるはずだ。話がそれた。

では、このような社会(学級)では「対話」は不可能なのか。
不可能ではないだろう。
ヒントは、『忠臣蔵』p154だ。
江戸から早駕籠を到着させればよいのだ。ぼくが。
上に述べた○○くんのことがある。さらには、なんと、2学期、5,6年に転入生がくると聞いている。

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2005.08.05

第7回 全国国語授業研究大会

第7回 全国国語授業研究大会の参加メモ

1 8月3日、午前10時頃、筑波大学付属小に到着
大会テーマは「国語の学力を向上させる授業とは」-読解力を高める-だ。
ぼくの封筒に書かれた受付番号は651。すごい人数ですね~。(この後、研究授業が始まる前には講堂が一杯になった)
すでに授業案検討のまっただ中であった。
参加者はまず教材文を読んで、自分ならどう授業するかをグループで話し合うもよう。どうやら教材文は『世界でいちばんやかましい音』(ベンジャミン・エルキン作 松岡亨子訳)らしい。

2  研究授業 二瓶弘行氏@筑波大学付属小と4年の子どもたち
教材文を4枚に分けて「発端」などを確認しながら教師が読んでいく。3枚を読み終えた後、問う。
「クライマックスはどうなると思う?」
まず、心内対話をさせる。これは個人思考だ。次にペア対話をさせる。隣の子と話し合うのだ。その後「全体対話に入ります」と全体の話し合いに入る。

「続き読みたい?」「続きは2学期です」と教師。
「え~っ」と子どもたち。ここらのやりとりは絶妙。

3 授業の協議会
氏は言う。
「ある文学作品を学習材にして、子ども達に教えるべきはその作品の「確定された主題」ではない。その作品が持つ「内容価値」でもない。まして「思想」ではないと思う。/教えるべき中心は、「作品の『言葉』を詳しく検討し、自らの作品世界を創造する力」であると考える。この力こそ、文学作品の「読解力」ととらえたい」(指導案より)
そのために「6つの点と4つの場面で作品の全体構造を把握する」ということを大事にされているようだ。
ここで言う「6つの点」とは「冒頭・発端・クライマックスの場面の始まり・クライマックス・結末・終わり」である。「4つの場面」とは「導入場面・展開場面・クライマックス場面・終結場面」である。
でも、これって「読み研」とか「分析批評」とよく似たところがあるじゃない。それならそうとなぜ指導案などに明記しないのだろうと「?」に思っていると、学級の実態に合わせるためにご自身が学ばれたものを(アレンジして)使っているとの説明があって納得。
やはり「国語の○○力」のように、「力」が入ったテーマになると「読み研」方式か「分析批評」なのかな、なんて思った。

筑波附属小は3年間組みかえなしの持ち上がりだそうだ。なので、3年後を見越した指導ができそうだ。(分析の)観点を教えるのに急がなくてもいいのだ。

4 テーマ別分科会
高学年文学教材の部に参加。

5 8月4日、2日目
二日目の授業の教材は説明文「千年の釘にいどむ」。授業者は増田篤彦氏@近畿大学附属小。

教師「形式段落1のキーワードはなに?」
(略)
教師「形式段落3のキーワードを考えていこう」
子供「薬師寺」
子供「大がかりな再建事業」
子供「何十年もかかる大事業」
子供「薬師寺と大がかりな再建計画をあわせて、薬師寺の大がかりな再建計画」
子供「古代の建て方とできる限り同じ建て方…が中心で…」
教師「いちばん簡単な言い方をしたら何だろう?」
子供「薬師寺」
子供「古代と同じ」
子供「古代の薬師寺を再建する
教師「かぶった言葉は?みんな出てきた言葉は?」
子供たち「薬師寺」「再建」
のように授業が始まった。
途中、
子供「古代の人々に負けないもの」
子供「釘を作る鍛冶職人に至るまで。そういうことがないと白鷹さんが出てこない」
子供「でも、今段落のキーワードをやってるから白鷹さんと関係ない」
子供「一流の職人たち」
子供「古代の人に負けないもの、って前に出ていて省略している」
のように形式段落のキーワードを考えている子と意味段落を考えている子の意見が交錯した。

6 授業の協議会
・要点をまとめるまとめ方をまず教えるべき
・この教材は要点指導のためにふさわしい教材か
・この題は「千年の釘に挑む」でよいのか。と考えるとこの文に書いてあることと書いてないことが分かる。
などなど。
疲れました。

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2005.08.02

窓をあける

1学期の終業式の帰り際、いつものように挨拶をすると子供たちは机を教室の後ろに寄せた。次の朝、掃除がしやすいように帰るときには後ろに寄せる習慣になっている。だから終業式の日にも寄せた。

8月1日(月)は登校日だった。
チャイムが鳴って教室に上がると、なんと子供たちは後ろに寄せられたままの場所で座っているではないか。教室の前半分があいている。
だれも机をもとの場所にもどそうと言う子はないのだ。
指示されないと行動ができなくて、なんてぼやく気はさらさらない。
座っているだけでもえらいと思う。こんなに思うのは歳ゆえか。

さらに窓が閉まっているではないか。この暑いのに。
一歩踏み入れるとその足で暑さを感じる。(水泳指導に備えて短パンだったので)
すぐさま足を引っ込めて廊下から問う。「何度や?」
しばらくたって(何でしばらくも待たんとあかんのでしょう(涙))「32℃」。
「そうか、覚悟を決めて教室に入るからな」とぼく。
入って「がまん大会でもしてるん?」と問う。
子供たち「・・・・・」
からぶりである。
子供たちには「がまん大会」というのが分からないのだ。いやそれ以前に「がまん」という言葉も知らないのかも知れない。

指示されないと行動ができなくて、なんてぼやく気はもちろんない。
逆に大胆な仮説をば。
仮説:日直の仕事のひとつに「窓あけ」がある学級で育った子は、自分で窓を開けようとしなくなる
ホンマか。
もちろんぼくは4月に窓をあけるのは日直の仕事ではないことを言っている。暑ければだれでもあければいいのだし、寒ければしめればいいのだと言っている。
さて。

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サマーセミナー

「岡山サマーセミナー」(7月31日)に参加した。
ぼくの日常とは全く異質な空気を吸っておくことは大事だ。

第1講座 E表&D表検定
検定の場を初めて見た。ふ~ん、といった感じ。
会場で授業を受ける。すると子供の気持ちがよく分かる。
ぼくはテンポについていけないのだ。歳を感じる。
授業に対して「そんなところは気づかなかった」という講師の方の授業批評があり「さすがや」と思う面も。でも「いっしょや」と思うところも少しはあり。

第2講座 討論の授業の原則
あいかわらず鋭くて厳しい舌鋒の大森修氏の講座。
氏は現任校の状況と討論の授業の必要性を結びつける。

■何のために討論の授業をするのか。それは、自分で考え判断して行動できるような強さを持ってほしいからだ。友達の輪の中に入らなければ外されるというのは強さがないからだ。だから討論を、教科や国語科の中だけに矮小化してはいけない。その子の生き方にまで発展させなければならない。

■外国の子どもと交流会をした。「どんな科目が好きですか?」という話題になった。
外国の子は「社会科が好きです。歴史を学ぶと過去に生きた人の考え方や…を知るからこんなおもしろい科目はないです。」と言う。対して日本の子は「社会です。」とだけしか答えられない。この違いこそ討論の指導をしなければならない理由であるし原則である。

第3講座 討論がおこる模擬授業
3本の模擬授業。新しい知識を仕入れられた。やってみたいという授業があった。
パワーポイントを使っての授業を見ると、どうも授業よりプレゼンという気持ちがぼくには強く働いてしまっているな~。もやはついて行けてないな~と思うところだ。

第4講座 討論可能にする要約力を高める
テーマが「学習障害の理解と指導法」に変わる。大森修氏はこのようにしてご自身の学びをつくっているのだというのが垣間見えた。
印象に残った言葉。
「学者でも治せない。医者でも治せない。教育の力でしか治せないことがあるんだ」

第5講座 討論が必ずおこる模擬授業
「社会科で『なぜ』と問うてはいけない。『どのように』と問うべき」
「なぜこんなに兵を集めたのか」はだめで「どのようにして集めたのか」と問う。

「ふりこ」は面白そうだ。
去年は選択制にしたけど今年はちょっと考えてみよう。

第6講座 討論の授業のVTR審査
大森修氏の指摘。
「子どもの意見分布がどうなっているか。どんな意見が出されているかが子どもたち自身に分かっている必要がある。すると、みんなが位置づく。でないとやりとりしている数人だけの話になってしまう」
「文からはずれて日常的なところに話題が陥っている。文章から離れている」
「『今こういうこと言いましたね。でも私はね…。(私もね…。)というように言わせる。『ね』を入れると学級の雰囲気がよくなる。」

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