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2008.08.27

Yさんの講演会から学ぶ

研究所時代に一緒に仕事をしたYさんの講演会。

若手数名を誘って聞きに行く。

Yさんの学級経営はボクにはとうてい真似ができない。
話を聞くと引き込まれるのだ。
彼の話を聞いているとだんだんその気になってくるのだ。
そういう話しぶりだ。
だから彼の学級の子たちも、彼の下でやりがいのある日々を過ごすことだろうと思う。

さて講演会である。
彼は「私の歩み」から始めた。
過去27年間で赴任した3校で、自分の授業の見方や考え方に影響のあった先生との出会い、その言葉などを紹介するところから始めた。

しかしこの導入は失敗だった。
ボクらのようにoldで彼の話の中に出てくる先生を知っている者は興味深く聞けるが、それを知らない若手にとっては退屈でしかない。
今春大学を出たばかりのMさんなどは、すぐに眠りに入った。

レジュメでは「はじめに~私の歩み~」→「今、私のめざしている授業」→「めざしている授業に少しでも近づいていくためには」→「具体的な取り組みから」→「最後に」という順になっている。
この中の、「具体的な取り組みから」は面白かった。
刺激的なものもあった。
例えば算数の割合では、文章から「割合」「もとになる量」そして、「くらべられる量」の順に見つけ出させて式に当てはめさせるという。
(ボクも同じなので少しばかり安心したけど)
と、教え込む場と考えさせる場を明確に分けている。
口調も授業を再現しているから勢いがある。
だから聞きやすい。
ここから話し始めればよかったのに。

「うまく話せなかったので伝わらないと思います。11月の研究会に授業を見に来て下さい」と言える人なのだ。

90分喋るなんてことはボクにはないけど、講演会というのは組み立てが難しいね。
まずつかみが難しい。
それに今の時代、喋りだけではよほどの達人でないと90分は無理だろう。
ビデオを見せたり、先生だったらどうしますか?というような投げかけたりする場がいるだろう。

って、これって授業の組み立て方と同じじゃないか。

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2008.08.17

現状に甘んじてしまう生き方

『“新しい伝統”に挑む 野武士のごとき集団を作った男の物語』向山洋一・長谷川岳著(明治図書)のp30~32にかけて、百人一首の読み方について書かれている。
簡単に言うと、子どもたちに、下の句を覚えていた方がよいと実感させる教師の読み方について書かれている。
最初の五文字で間をとる、下の句を読む前にかなり間をとるなどだ。
さらに、一つの句を読み終えるとすばやく次の句を読み始める。こうすると読み終わってからのんびりと探している間はないのだ。

ボクも今年の春は今までにない工夫(?)をした。
上の句を読み終えると「ここからやで」と言葉を入れたのだ。
カレにゲームを分からせるために。
カレにこのゲームに参加できないと思わせないために。
そして
カレはダーティーな勝ち方もしたが、今では覚えている句が数首あるもよう。
終わりの会の時間の百人一首を楽しみにしている。
(ちなみに終わりの会の時間の中身は、百人一首か歌と帰りの挨拶だけ)

だからか、ボクの読みはいつの間にかふつーになった。
そしてそのままだ。
そのままというのがいけない。

現状をもう少しアップするには…という思考が働かないのだ。
入り口はがんばるけどね。

だから新学期効果も手伝う一学期はまずまずだが、二学期はどうも…といった感じになるのだ。

前任校のYさんはエルグランドでも抜け道ドライブをする。
ボクは渋滞の中を待っている。

もっといい方法はないのか。
他の方法はないのか、ということを考えないのだ。

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2008.08.15

「数字」と「言葉」を意識しよう

ここ数日、今までになく本を読んでいるが…。
ノーミソに残っていない(涙)。
「ふ~ん」で終わってしまっている。

「!」と思うフレーズはパソコンに入れているけど、やはりノートに書かないと定着しないのだろうか。
(キーボードは刺激が少ないしね。それにコピペだったら負荷ゼロだもんな~)
黙読だからか。(まさか、音読するわけにはいかまい)

この状態は自分でも不安になってくる。
老い先が…。

お~し、今日から「数字」と「言葉」を意識した生活をしよう。
『知子の情報』に「数字と言葉」というファイルを作ろう。

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2008.08.11

『漢字は日本語である』

『漢字は日本語である』小駒勝美(新潮新書)
「漢字そのものも面白いが、漢字にまつわる世の中の動きも、実に面白いのである」p197と最後の文にあるように「漢字って面白い・奥が深い」と思わせてくれた本。
さらに筆者の漢字への愛おしさも伝わってくる本

へえ~①
「たしかに戦前の新聞の見出しや、商店の看板を見ると、横書きの文字は右から左へと書かれている。それで戦前は右横書きだったのが、戦後になって左横書きに変わった、と考える人が多い」(略)
本書を読むまで、戦後アメリカの占領下にあって、その影響で左横書きに変わったとどこか思っていましたよ。ところが、「では、あの新聞の見出しや商店の看板は何なのか。実はあれは、縦書きなのである。どんなに横長でも、縦書きなのだ」p53

へえ~②
「『功』という字なら、『コウ』と読むから、『工』が音符であることがわかる。すると、残った『力』が意符だ。すでに述べた通り、形声文字では、原則として意符のほうが部首になっているので、部首を探すときはこれを見分ければよい」p110

へえ~③「合体のさせ方が違うだけで、『裏』と『裡』はもともと、まったく同じ字なのである」p111
「漢字は元来、どの部分を左に書こうが右に書こうが、上に書こうが下に書こうが、かまわなかった。それがたまたま、多くの人が何となくバランスがよいと感じる位置関係に落ち着いただけなので、それとは違う位置関係に置いてもそれなりに収まる字であれば、動用字として残る可能性がどの字にもあったのである」p112
その例として「峰」と「峯」や「島」と「嶋」や「嶌」、さらに「隣」と「鄰」などがあげられてます。

へえ~④
「当用漢字表には、日本国憲法に出てくる字はすべて入れたので、これを引き継いだ常用漢字表にも、批准の『准』が入っているのである。付属品の『付』と附属高校の『附』。違いがよくわからないこの二字がともに当用漢字表に選ばれたのも、『附』が憲法に出てくる字だからだ」p152
こういうのを「憲法漢字」とも言うそうです。p154

へえ~⑤
憲法漢字とは逆に、使用頻度が大変高く、誰もが読み書きできるポピュラーな漢字なのに常用漢字ではないというケースに「誰」・「俺」を例に挙げていますが(P157)、これについては新しい動きがありました。

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2008.08.10

『ニッポンには対話がない』

『ニッポンには対話がない』北川達夫×平田オリザ(三省堂)
元外交官の北川氏と劇作家・演出家の平田オリザ氏の対談集。

<討論の授業に至るまで、どのような考え方で指導すればよいかのヒント>
「ある意見が正しいのか、それともまちがっているのか、それは本来的にはだれにもわからないことです。意見なんて、突きつめていえば、どの根拠が事実として正しいかどうか、あるいは意見と根拠が適切に関連づけられているかどうかでしか評価できないものなんですから」p39
「いろいろな意見が出てくる状態をよしとしなかったり、あるいは、いろいろな意見が出ても結局は決まった結論に導いてしまったりしていると、その場に参加している人たちからは意見が出にくくなっていきます。やっぱり何が正しい意見なのか、何がまちがっている意見なのかということをまっさきに人は考えてしまう」p40

<発言のさせ方>
「教室によく貼ってあるのは、どちらかというと『思考の型』なんです。論理の回路を頭のなかにつくるということ。そういう『思考の型』としては使えるんですが、『表現の型』ではないんですよ。『ある意見があって、それを支えている理由はというと、それは、理由一つ目、二つ目、三つ目……』と考える。そのあと『それをどう言うか』というのは、これは個々の表現の問題です。もちろん最初のうちの、うまく言えないあいだは『思考の型』にどって言ってもかまわないんですよ」p104
「相手とのコミュニケーションのなかで、相手がわかっているのに『なぜかっていうと』なんて言うのは表現としてもとても変なわけで。だれも聞いてもいないし、疑問に思ってもいないのに、いちいち理由を説明するんですからね」p106

そういえばCD「やまなし」の向山学級の子たちは、型にはまらないしゃべり方をしていた。

<彼我のコミュニケーションの違い>
「落書きはだめだという道徳観を共有しているのならば、『だめなものはだめだ』でも、それはそれでコミュニケーションとして成り立つんですよ。そうなんですけれども、それが通用しないレベルでのコミュニケーションがいまの世界でもとめられているんだということなんですね。そういったレベルの発想は日本の教育では求めてこなかった」p153

<方向性の違い>
「ヨーロッパ人と対話をしているときと日本人同士と対話をしているときとでいちばん大きく違いを感じることは、日本人だと対立を回避する方向で話が流れていきますね。それで、いま言われたようにすぐ、まあまあまあと、見解の違いはさておいて、というふうになりがちですね。ヨーロッパ人たちと対話をすると、対立点を積極的に見つけていくんですよね。意図的にどんどん対立させていって、お互いが考えているところと少し違う次元のところに話をもっていこうとする」p166

<「対話」と「議論」「ディベート」との違い>
「議論やディベートは相手を説得することが目的だから、妥協というのは、お互いに説得に失敗したということで否定的にとらえざるをえない。しかし、対話というのは、価値観を意図的に衝突させ、それによってお互いに変わっていく作業なのですから、ある意味で前向きに妥協点を探す作業ともいえるんですね」p168

<将来起こりうる移民問題>
「20年後には、日本の全人口の10%なり20%なりは移民で構成されることになります」p176
「同じ集合住宅に、イラン人とドイツ人と日本人とが住んでいて、ゴミの出し方とかカラスよけのネットをどうするかについて話し合うシュミレーションを子どものうちから徹底的にしないといけない。これは、ディベートですむ問題ではないんです」p179

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